Slow Luv op.3 -4-



(7)


 八月二十二日は快晴。雲一つない青空が、暦の上での秋を裏切っていた。
 今日のホールは前回とは場所が違う。地元のオーケストラが付くということもあって、箱が大きくなったのだ。ピアノとの協奏曲の他、同じくベートーヴェンの交響曲も予定されていた。当然、ショパン・ファイナリストのユアン・グリフィスはトリを飾る。
 調律データは同じだった。前回、あれだけやり直しをさせておいて、結局変わっていないところをみると、やはりあれは高度な嫌がらせだったのだろう。当のユアンはまだ姿を見せていなかった。
「中原」
 背後に人気を感じ、仕事の手を止めて振り返ると、中原さく也が立っていた。
「悪かったな、何か変なことになって」
「あんたが謝ることはない」
 相変わらずのポーカーフェイスで、彼は答えた。まだ途中だからと断って、悦嗣は調律を続けた。さく也は近くのヴァイオリン席に座った。時折りホール・スタッフが、目を止めて行過ぎる。オケのメンバーだとでも思うのか――傍らにヴァイオリン・ケースがあったので――、軽い会釈付きだ。
 去年の月島芸大での模範演奏の時同様、さく也は調律の様子を黙って見ていた。悦嗣は緊張で指先が冷たくなるのを感じていた。
 あのヴァイオリンと弾く。音が耳に蘇る、『シャコンヌ』の音が。
「Sakuya !」
 しばらくして、よく通るテノールが響き、他のスタッフが仕事の手を止める。悦嗣の手も止まった。ユアン・グリフィスの登場である。 彼は客席からステージに上がり、足音も高くさく也に近づいた。さく也は人差し指を口に近づけ、無言で「静かにしろ」とユアンに示した。
 さく也の隣の席にユアンは腰を下ろした。何とか話しかけようと、引き結んだ唇がピクピク動き、息が漏れるが、さく也は頬を彼に向けたまま、取り合わない。
 二人の視線が悦嗣に集中する。「やれやれ」と悦嗣は思いながら呟き、仕事を再開した。




 曲はチャイコフスキーの『なつかしい土地の思い出 第三曲 メロディ』で、さく也の選曲だった。
 去年の暮れ、月島芸大での模範演奏ではこれの第二曲『スケルツォ』とラフマニノフの『ヴォカリーズ』を演奏した。二人でのレパートリーは実質その二曲だから、否応なしだと思っていたのだが、今回の重い鍵盤では速い前者は辛く、ユアンを納得させるには後者では弱すぎる――これは英介の弁――ということで、選び直したのだ。
 『なつかしい土地の思い出』は三曲からなるヴァイオリンの小曲集で、悦嗣はスケルツォ以外の二曲は、人前で弾いたことはない。ただヴァイオリン専攻のレッスンにつきあったことはあった。 しかしさく也と合わせたことはない。リハーサルなしのぶっつけ本番になるが、それでいいからと彼が退かなかった。
「いいさ、ボストンから来てもらうんだから。それに旅の恥は掻き捨てって言うからな」
と悦嗣は承知した。
 チューニングの前に軽く打ち合わせる。
「Moderato con motoだけど、Moderatoのままで始めてくれないか? 様子を見てから速度を上げたいんだけど」
「わかった。[A]の一小節前から上げる。[B]は?」
「流れで行ってくれていい。フォルテだからガンガン叩くさ。そこまで行ったら、指もこのピアノになれるだろうから。出来るだけついていく」
 ユアンはホール真ん中を横切る通路より、少し前の客席に座っていた。音楽を聴くには一番良い席だ。
 悦嗣がピアノの前に座り、傍らでさく也がチューニングを始めると、スタッフ達は何事が始まるのかとステージを注視する。さっきまでピアノを触っていた調律師と、てっきりオケのメンバーだと思っていた若いヴァイオリニストが、ゲスト・ピアニストの為に用意されつつある舞台に立ち、当のユアン・グリフィスが客席に座って二人の演奏を待っているのだから、奇異な感じを受けているに違いなかった。
 チューニングを終えたさく也が、悦嗣を見た。横目でそれに応え、軽く頭でカウントを取る。ピアノからの第一音が鳴った。
 入りの速度はModerato――程よい速さのメゾフォルテで始まり、表情豊かな三拍子で曲が進む。
 初めこそ慣れない鍵盤に戸惑った悦嗣だが、曲が進むうちに気にならなくなった。それがわかるのか、ヴァイオリンが変わった。本来の中原さく也の音に。
 響きわたる音色。揺れるテンポ。ホール内にいる人間は動きを止め、その場で聴き入っている。もちろん、悦嗣にはその様子を見る余裕はない。初めて合わす曲と言うこともあるが、未だにこのヴァイオリンには慣れないからだった。
 惹きつけられ、引き摺られる、気を抜くと、取り込まれてしまいかねない――そんな感覚が絶えず悦嗣を縛る。
 中原さく也との演奏は真剣勝負だった。弾き終わった後、満足感を得たことはなかった。音を追うことしか出来ない、自分の力の無さを思い知るだけだった。
 それでも弾かずにはいられない。彼のヴァイオリンの音を思い出し、ピアニストの指が目覚めるのだ。
――だからユアン・グリフィスは、中原と弾きたがるのか?
 最後の和音を掴んで、悦嗣はそう思った。指が音を記憶し懐かしむから、希求せずにいられないのかも知れない。ユアンの指は既遂の感覚を追い、悦嗣の指は未遂の感覚を追う。「もっと、もっと、もっと」と。
 ヴァイオリンから弓が離れ、ホールに音が完全に吸い込まれると、拍手が沸き起こった。その場に居合わせた人間が、たった一曲のために送ったのだった。一人を除いて。
 ユアンは立ち上がっていた。それだけだ。
 終わってさく也を見た悦嗣の視界には、その姿が入ったが、さく也はまったく見なかった。拍手が沸き起こっても、客席を見なかった。ただじっと悦嗣を見つめるだけだった。
「えっと…」
 その目に応えて、あわてて立ち上がる。思わずピアノに手をかけてしまい、悦嗣は顔をしかめた。余計な指紋が、蓋の端についてしまったからだ。調律師としての自分が戻る。 
 ピアニストの魔法は解けてしまった。




(8)


「もう帰るけど」
 さく也はホールの壁にかかる時計を見上げ、次に悦嗣を見て言った。今しがたまで音を紡いでいたヴァイオリンは、いつの間にかケースに収められていた。       
 曲の終わりは確かに自覚していたのに。自分はまた、あの音に中ってしまったのか――悦嗣は浅く息を吐いた。
「俺は演奏を聴いて帰ることにしてるから。どうやって帰るんだ?」
「新幹線で東京まで出る」
「地下鉄で行くなら、駅まで送るよ」
 その言葉に軽く頷いたさく也は、ステージから降りた。続いて降りようとした悦嗣は、視線に気づいて足を止めた。
 ユアンが同じ場所に立っていた。少し距離があるにも関わらず、その視線が感じられる。横一文字に結んだままの唇が、彼の複雑な胸中を表して見えた。そして悦嗣を…と言うより、さく也を目は追っている。振り返る気配の無い、その後ろ姿を。
「いいのか? あいつ、何か言いたそうだったけど」
 結局、さく也は一度もユアンの視線に応えなかった。その彼の姿がさすがに気の毒に思って、ホールを出たところで悦嗣が言った。
「何も言わなかった」
 さく也の答えは明解で、悦嗣に次を継がせない。
 地下鉄までの道を並んで歩く。東京よりは幾分マシとは言え、昼間はやはり暑い。街路樹が作る蔭を選んで歩いた。すれ違う人間が、ほとんどさく也を振り返った。ヴァイオリニストの中原さく也と気づいているわけではなく、その端正な容姿に惹かれて振り返るのだ。当の本人は、まったく意に介さず、相変わらず冷たい頬を向けるだけだったが。
「口で言ってもわからないから、だからここに来たんだ。『メロディ』もそのために選んだ」
 その『冷たい頬』が、珍しく自分から言葉を発した。脈絡無く始まった話は、先ほどホールを出た際の話の続きらしかった。
 無言で悦嗣が彼を見やる。それの答えはすぐに返った。
「ユアンと合わせた曲だから」
「じゃあ、俺は比べられたのか?」
「言葉で言うよりも、音楽の方がわかりやすい」
「そりゃ、おまえはなぁ」
――喋らないから
とは、悦嗣の心の声である。
「でもユアンはわかったみたいだ。だから何も言えなかったんだろう? ユアンのピアノは、俺を押さえつける。あんたのピアノは、解放してくれる。独奏でないかぎり、音楽は相乗作用で成立してる。だから楽しいし、面白いんだ」
 アルコールも入っていないのに、滑らかに言葉を繋ぐさく也を、悦嗣は不思議そうに見たので、
「何?」
と彼が顔を向けた。
「今日は、よく喋ると思って」
 さく也の頬が一瞬にして紅くなった。フイッと前を向くと、その口は閉じられてしまった。
「だからって、止めなくていいんだぜ」
 さく也の歩調が速くなった。彼自身が作る風に髪が揺れて、頬同様に紅くなった耳を見せる。あきらかに照れているその様が、微笑ましかった。
 地下鉄の駅が見えた所で立ち止まるまで、彼の口は開かなかった。
「…俺は、あんたと弾くの好きだけど、それは…ユアンと同じなのかな…?」
 駅は横断歩道の向こうで、信号は赤。蔭は切れ、容赦なく太陽が照りつける。走り過ぎる車の排気ガスとエンジン音に、暑さが更に増す気がした。さく也のぽそりとした呟きは、そんな『残暑』に紛れそうだったが、辛うじて、悦嗣の耳に届いた。
「あんたに…弾くことを強要してる」
「そんなこと、ないさ。俺は、その、素直じゃないだけなんだ」
 信号が青に変わったが、二人は渡らなかった。
「おまえと弾くと思うだけで、わくわくする。その才能に釣り合わないとわかっているのに。気後れもするけど、そんなの弾いてしまえばわからなくなる。ただ弾きたくなる。その前後に迷いと後悔があるだけなんだ」
 信号がまた赤になったので、悦嗣はさく也の腕を引いて、近くの蔭に入った。
「俺も、おまえと弾くのは好きだよ」
 悦嗣は笑った――そういう事なのだ。どんなにその差を思い知らされても、弾かずにはいられない。
 さく也は目を見開いた。
「どうしよう、戻りたくなくなってきた」
 駅の方に目をやって、さく也が独りごちた。彼はこれから東京に出て、成田発の夜の便でボストンに戻るのだ。仙台滞在時間は、二時間に足りない。ずいぶんな強行スケジュールで、元は悦嗣のためだった。せめて飛行機代を出すと申し出たが、断られた。
「すぐ帰らなきゃならないのか?」
「リクが…弟が一人で待ってるから」
 信号が青になり、二人は蔭から出て今度は渡った。駅の出入り口がすぐだった。
「じゃ、俺はここで」
 悦嗣は、地下への階段を下りかけるさく也に言った。
  二、三段目に掛かっていた足は止まり、彼が振り返る。同時に左手の細い指が、悦嗣の左腕を掴んだ。
 それは一瞬で離れ、拳を作って後ろに回された。
「中原?」
「…なんでもない」
 さく也は階段を下り始める。いつものように別れの言葉もなく、振り返らない。
 下って行く後姿に、「なんでもない」と言った時の、彼の表情が被った。わがままを言おうとして、我慢する子供のような。掴まれた感触が残る腕が、悦嗣に問う――別れ際に、あんな顔を見せたのは初めてだろう? そのヴァイオリン同様、彼のささやかな感情表現は、悦嗣を捉えて離さない。
 自答するより先に、言葉が出た。
「改札口で待ってろ。荷物、取ってくるから」
「え?」
「俺も一緒に帰るよ」
 さく也にそう言い置くと、悦嗣の足はもう、今来た道を戻り始めていた。




 後日、仙台でのユアン・グリフィスの『皇帝』は、彼のベートーヴェンを知る批評家に酷評された。
ユアン・グリフィスの『皇帝』は、精彩を欠いていた。技術的には完璧。ミスタッチはなく、速度や強弱は発想記号通りで、ベートーヴェン弾きと評されるほどの、彼の個性は片鱗も見られなかった。何の面白みもない。日本の地方都市と侮って、手を抜いたと取られても仕方のない出来だった
 それをwebサイトで読んだ悦嗣は、聴かなかった演奏のことを思った。あの日の午後の出来事が、彼の演奏に影響したのだろう。悦嗣のピアノにではなく、中原さく也が、『日帰り』してまで仙台にやって来たことに、ショックを受けたに違いない。自分を拒絶するために、そして、悦嗣のピアノのために、さく也が演奏したことに。
 プロとして今度は、マイナスの感情をコントロール出来なかったのだ。
――それでも何とかコントロールしたってことか、ミスなしだったってことは
 そして、さく也がその三日前に母親を亡くしていたことを、悦嗣は仙台から戻って翌日、英介からのメールで知った。彼の演奏は完璧で、肉親を亡くして間もなかったなど、知った今、思い返しても気がつかない。悦嗣はさく也を、結局、成田まで送ったのだが、彼の様子は変わらなかった。もっとも彼は違っていたのかも知れない。しかし悦嗣にはわからなかった。わずかな変化に気づくほど、さく也をほとんど知らない。知っているのは比類ない音と、自分に向けられる想いだけだ。
 成田まで送ると言った時の、彼が忘れられない。赤く染まった頬で、口元を綻ばせた。
 その表情を見た時の、自分の気持ちも忘れられない。言葉では言い表せない――はっきりと表現出来ない。それでも、その気持ちを忘れられない。


ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう


 英介がそう言った時、悦嗣の心の一隅が熱くなったのは、またあのヴァイオリンと合わせられるという高揚感と、――それから……


                                          Op.3 end



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